須賀敦子さんの言葉から考えた

Bookエッセイ

本

日曜の夕方、おやつを食べていた娘が「国語で須賀敦子さんの文章が出てきたよ」と、思い出したように言った。

一トンの塩を舐める?!

私が愛してやまない作家、須賀敦子さん。

その名を娘に話したことがあったのだろう。「須賀敦子」という名前に彼女が反応したことが、なんだか嬉しい。

その文章を見せてもらうと、「塩一トンの読書」だった。

須賀さんがイタリア・ミラノで結婚して間もないころ、イタリア人の姑がつぶやいた言葉が心に残り、そこから考えた彼女ならではの思いが綴られた文章だ。

「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」

という姑の言葉から始まるこの一遍を、若き日々、私自身、何度読み返したことか。

塩はほんのちょっとずつ使うものだから、一トンの塩を一緒に舐めるには、気の遠くなるような時間がかかる。それほどに、嬉しいこともつらいことも、多くを一緒に経験しないと相手のことはわからない。いや、それほど長く付き合っても、人を理解するのは難しい、という話。

そこから須賀さんは、本を読むことがこれに似ている、と展開していく。

本を読むということ

私たちが本を読むとき、「すじ」だけを知ろうとして「どんなふうに」書かれているかを把握する手間を省いてはいないだろうか、と須賀さんは疑問を投げかける。

この問いかけに初めて触れたとき、私は心底、ドキッとした。

当時は、あれも読みたい、早く読みたいと思って、多読、速読に走りがちだった。それは結局、「すじ」を追っているだけ。それをもって「読んだ」気になっていた読書がどれほどあっただろうと、今も思う。

あれから数十年。

この歳になると、昔読んだ本を本棚から取り出してきて再読する機会もけっこうあって、そうすると、以前は気付かなかった(気付けなかった)ところに引っかかったり、思いを馳せたりすることも少なくない。

これが須賀さんの言う「本を読む」ということなのだろうと何となく理解できるようになったのは、やはり年齢を重ねてからだ。

もっと言うと、私はまだまだ理解できていない、とも思う。

須賀さんは、「古典(本)があたらしい襞を開いてくれないのは、読み手が人間的に成長していないか、いつまでも素手で本に挑もうとするからだろう」と書いている。

いろんな思いを積み重ねながら年月を経れば、人間的にはそれなりに成長するかもしれない(私は不十分だけど)。ただ、私はまだ、やっぱり素手で本に挑んでいるところが多々ある。

その文学が生まれた時代背景を学べば、もっと理解は深まるだろうし、それがイギリス文学ならば、本来、英語で味わったほうが「どんなふうに」書かれているかを愉しむこともできるのだと思う。

残念ながら、文学を味わう英語力も、歴史的な理解も不十分な私には、私自身が生きてきた狭い価値観という「素手」で本と対峙するしかないということに、いまさらながら気づいた。

これはこれで、楽しい読書だからいいのだけど、もしそういうことを意識して、須賀さんが言う「本を読む技術」を少しでも向上させることができたなら、もっと奥深い読書体験が広がるのだろうか。

何をするにも遅すぎることはない。「素手」も悪くないけど、「本を読む技術」を少し意識して広げてみようと思った月曜の午後だった。

 

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