聞こえない声を聴く

Bookエッセイ

町田そのこ・著『52ヘルツのクジラたち』を、ようやく読んだ。

3年越しの本

コロナ禍に突入して間もないころ、書店で濃紺の表紙を見つけた。カラフルで華やかな平積みコーナーの片隅で、深く静かなその表紙絵はどこか異彩を放っていて、妙に惹かれた。

なのに、そのときは単行本の価格にしばし躊躇して保留。翌年にはその本が本屋大賞を受賞して一躍話題になったけど、こうなると逆に気持ちが冷めるへんな私のクセ

時は流れて今年5月末、文庫化されたので購入しようかなと思った矢先、仕事で再会した昔の同僚から、なんと、「これ読んでみて」といただいた。これは出会いに違いない。今が読むとき!

それがこの本、『52ヘルツのクジラたち』

他のクジラには聞こえない声

52ヘルツで鳴くクジラが世界に一頭だけいるという。他のクジラには聞き取れない高い周波数の鳴き声。近くに仲間の群れがいても気づかれない。どんなに大きな声で鳴いても気づいてくれない。大海原でたった一頭、孤独に鳴き続けるクジラなのだという。

主人公の貴湖(きこ)が一人、大分の山あい、人里離れた古い一軒家に暮らしているところから物語は始まる。

なぜ一人でここに? という読み手の疑問はほったらかされたままだけど、町田さんの筆遣いは優しく、海を望む山合いの風景を垣間見せてくれながら、貴湖の事情が少しずつ見えてくる。それは、のどかな風景とは対照的なつらいものだった。

昔、絶望から抜け出せないでいる貴湖に、ルームシェアしていた友人が手渡した音源。それが52ヘルツのクジラの鳴き声だった。硬く閉ざしていた貴湖の心にスッと入り込んできたその音は、誰のどんな言葉より、貴湖の心を溶かし、涙を溢れさせた。

ずっと52ヘルツで鳴いていた

貴湖がなぜ大分のこの町に一人で暮らしているかは謎のまま、物語は続いていく。だけど、読んでる私は、そんなことはどうでもよくなってくる。というより、このまま静かに読み進めればきっと見えてくると信じられる筆運びなのだ、町田さんの文章は。

そして貴湖はこの町で、言葉を発しない少年「52」と出会う貴湖にだけは、少年の声にならない声がかすかに聞こえてきた。

貴湖も、少年「52」も、ずっと52ヘルツで鳴いていた。そんな貴湖だから「52」の声を掴むことができた。

二人がそれまでに歩んだ壮絶な苦しみは想像を絶するものだけど、その二人が惹き合うように出会い、52ヘルツのクジラに共鳴し、互いの声を聴いて、たくましく生きていく姿に、読み手は震えるような勇気をもらう。

耳を澄ませて生きてみる

振り返って、私たちの何気ない暮らしの中にも、きっと52ヘルツの音が溢れている。そんな音を、私は聞けているだろうか。聴こうとしているだろうか。

人と人が分かり合うのは難しい。いちばん近くにいると思ってる人の気持ちさえ、ときにわからなくなる。みんな、それぞれの52ヘルツを持っていて、自分にしかわからない声を発しているのかもしれない。

そして私はやっぱり、私自身に聞こえる音しか拾えていないように思う。

これからは、もう少し耳を澄ませてみよう。実は、もっと聞こえる音があるのではないか。そう思うところから始まることがあるかもしれない。

『52ヘルツのクジラたち』、この「たち」は、私たちみんなだ、きっと。

 

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