「普通」から解き放たれてみる

Bookエッセイ

ときどき、吉本ばなな作品を無性に読みたくなる。

「読みたきゃ、読めば?」

先日もそんな日だった。図書館で文庫棚をあてもなく徘徊していたら「吉本ばなな」の棚で目が固定。『キッチン』『TUGUMI』『デッドエンドの思い出』など、懐かしいタイトルが並ぶ中で、見たことないタイトルが飛び込んできた。

『ふなふな船橋』

なんじゃ、こりゃ?

なんとふざけたタイトル。なんとやる気のないタイトル。だけど、不思議と心惹かれた。

「私を読んで!」と呼びかけてこない感じ。「読みたきゃ、読めば?」とでも言ってるようで、それが返って心地よくて手が伸びた。子ども時代を過ごした「船橋」という町が舞台のようなのも興味がわいた。

なぜか、ふなっしー

冒頭、15歳の主人公・花が、母と別れるシーンから始まる。

船橋駅に隣接する東武百貨店で買い物したあと、母から「これをママだと思って一緒にいてくれる?」と梨の妖精「ふなっしー」の大きなぬいぐるみを手渡された

そして二人は別れ、花は、船橋駅から少し歩いた海老川沿いのマンションに住む母の妹・奈美おばさんと二人で暮らしていく。それからずっと、どんなときも、ふなっしーは花を守る妖精だった。

波にたゆたい日向ぼっこ

大人の事情に振り回される女子中学生。花の状況は平たく言えばそういうことになる。

両親の離婚、母の再婚、そこには一緒に行かないという自らの選択……とても中学生の身には耐えかねる出来事が続くわけだけど、花の視点で進むこの物語に悲惨さはない。

そもそも花は、そういうことすべてを特別だとは思ってない。なすすべなく流されているのではなく、波に身を任せて、たゆたいながら日向ぼっこしてる、そんな感じ。ニュートラルでナチュラルで温かい。

佐倉の川村記念美術館で同じ絵に見入っていた幸子と意気投合し、偶然、家が近かったことから行き来が始まったり、梨の妖精「ふなっしー」を介して、花が住んでいる部屋に以前住んでいた「花子ちゃん」と繋がったり、いろんなことがあるけれど、すべてを淡々と受け止めて、自然に進んでいく花。

今のご時世、知らない人に声をかけられて意気投合なんて怖い。自分の住んでいる部屋が事故物件なんて知ったら、怖くて不気味で、とてもそこには住んではいられない。それが普通の反応だろう。

普通って何?

だとしたら、普通、って何? と考え込んでしまった。

ここで言う「普通」の感覚だと、花は不幸せになってしまう。

花は決して不幸じゃない。親友に恵まれ、現世を飛び越えた「花子」との出会いまで果たして、「花子」を感じる自分の部屋を愛している。

長年、一緒に暮らす奈美おばさんとの距離感も絶妙で、実の母との行き来も続く(母は、その後、病死)。十数年後には、奈美おばさんを「義理の母」と自然に表現するようになっていた。

普通にはあり得ないと感じてしまうこのストーリーを、ゆっくり読み進めながら思った。

私は、どれほど「普通」にがんじがらめになっているのだろう、と。自分の中の「普通」から解き放たれたら、もっと違う景色が見えるのかもしれない。人生、違う展開が始まるのかもしれない。

読みながらずっと頭の片隅で「で、なぜ、ふなふな船橋?」と思い続けてきたけれど、読み終えて思った。

『ふなふな船橋』、なんかわかる。久しぶりに、船橋駅から海老川のほうへ歩いてみようかな。

 

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