人の気持ちを理解することはできるのか?

Bookエッセイ

人はそれぞれ、生まれながらに抱え持つものが違う。抱えているもの込みで自分自身。親子でも、きょうだいでも、親友でも、それはやっぱり違っていて、だからきっと「人を理解する」ほど難しいことはない。

気持ちが重ならなくなっていく

今年の本屋大賞受賞作、凪良ゆうさんの『汝、星のごとく』を読んでいると、そのことを苦しいほどに感じさせられる。

暁海(あきみ)は、父親が家を捨てたことで情緒不安定になった母親を放っておけない。櫂(かい)は、恋愛体質で幼い頃から留守がちな母親との二人暮らし。二人はそうした事情を誰かに相談することもなく、自分で対処して生きていた。隠していたというより、その状況が彼らにとっての毎日であって、その事情込みの「自分自身」だったのだろう。

高校時代に出会った二人が互いに惹かれ合ったのは、お互いに「自分自身」を見たからだろうか。当時の二人は、互いの気持ちにピッタリ寄り添っていた。

卒業後、取り巻く環境の変化とともに、二人の気持ちがずれていく。「櫂はこう思っているに違いない」「暁海は喜んでくれるだろう」といった互いへの思いがすれ違うようになり、少しずつ離れていく。その様子を見守りながら、読者である私にはどうすることもできない。

なぜそこで? どうしてここで伝えないの? と思うことしきりなのだけど、いやいや彼らだけではない。誰もが当たり前に陥っていることなのだろうと思い返す。

大人になるほど難しい

「人の気持ちを考えましょう」「思いやりを持ちましょう」

小中学校の道徳時間の決まり文句。簡単に言うな。それがどれだけ難しいことか。

しかも、大人になるほど難しい。

いや、少し違う。

大人になると、人の気持ちを考えるようにはなる。だけど、考えたその「気持ち」がまったくトンチンカンになるのだ。

生まれながらであろうと、成長過程に身に着けたものであろうと、抱え持つ「事情」は、子どものころは単なる「事情」。けれど、その事情に心を砕き続けてきた膨大な時間は、少しずつ奥深くまで沁み込み、その人自身を作り出す要素になる。

そうやって作り出されたものが性格とか人格にも及ぶのだろうから、人間は本当に複雑怪奇。一人ひとり全く違って当たり前だ。自分の中でどれほど相手の気持ちを考えても、当然のごとく重ならない。いや、まったくの的外れであることがほとんどで…。

どんなに近くても、妹にはなれない

小学1年生か2年生だったか、妹や弟と無邪気に遊んだり、おやつがどっちが多いかでケンカしたりする毎日の中で、ふと不思議な気持ちになったことがある。

同じ家族の一員として生まれ、同じものを見て、同じものを食べて、一緒に過ごしている彼ら。私が年上だから、いつも彼らのことはすべてわかってる気でいた。けれど、どんなに近くても、私は妹にはなれないし、弟にもなれない。彼らの心の中を覗き見ることすらできないんだと、あるとき突然気付いた。

それは、当時の私にとって、あまりに衝撃的な気づきだったことを今も覚えている。そう思うと、自分の手足が動いていることも、私が何かを「思う」ということ事態も、不思議な現象に思えてきたものだ。

とはいえ、小学1年生か2年生。ずっとそんなことを考えているわけではなく、すぐにお菓子の取り合いに戻るわけだけど、あの一瞬、自分が生きてる世界が摩訶不思議なものに思えた瞬間を、その後もときどき思い出す。

私自身の気持ちを見つめること

人の気持ちを理解することの難しさは、いつも感じてきたように思う。

10代後半のころだったか、他人の気持ちを考えすぎて、自分の気持ちの在処がわからなくなった時期もあった。その後、反動からか、そういうことを放り投げた。あえて。

まず、自分の気持ちを大事にしようと思った。だから、人の気持ちに気づいても、なるべく鈍感であろうとした。今思うと、そもそも気づいたと思っていたその相手の「気持ち」だって、的外れだった可能性は高い。

人の気持ちはわからない。どんなに近しい人の気持ちも、本当のところはわからない。だけど自分の気持ちは、目を凝らしてちゃんと見つめればわかるはず。

結局、そこから始めるしかないんじゃないかと思う。

 

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