親子は他人と他人の不思議な出会い

Bookエッセイ

先日、中島義道さんの『人生を<半分>降りる』を読んでから、なぜか池田晶子さんの言葉を思い出すことが多くなった。

20年間読み継がれてきた名著

そこで、池田晶子・著『14歳からの哲学』を再読しようと思った。20年ほど前に読んだときの衝撃は覚えているものの、詳細はすっかり忘れていた。

そろそろ娘に手渡したい本でもあるので、早速、Amazonでポチッ。

届いた本書は、今年(2023年)発行の43刷。初版は2003年3月発行なので、20年の歳月を経て読み継がれているということだ。

のっけから、「考える」と「思う」の違いについて、池田さんは中学生に向けて、言葉を惜しまず語りかける。大人の私には少々まどろっこしく感じられたが、そこをちょっと我慢して読み進めると、あら不思議、池田さんの文章のリズムにいつの間にか乗っかって、心地よくなっていた。

足元がグラグラしてくる感覚

「言葉」「自分」「心」「死」とはどういうことなのか、その意味することが一つずつ丁寧に解き明かされていく。といっても、どれも〝あたりまえ〟に自分の中にあるものばかり。いまさらその意味と言われても…

ところが、池田さんにいざなわれながら深堀りしていくと、これまで、これらの事柄を何も考えずにただ分かった気になっていたと気づく。なんというか、それまで〝あたりまえ〟としていた足元がグラグラしてくる感覚。と同時に、大人の私には、少しずつ、じんわり、ものすごく腑に落ちてくる感じもあった。

これを中学生で読める子どもは幸せだな、と思う。

最初のまどろっこしい言い回しで挫折する子も多いだろうけど、そこさえ乗り切って文章のリズムに乗ることができたら、きっと何度も、目から鱗が落ちるだろう。

中学生にして、「考えるとはどういうことか」を知るというのは、きっとその後の人生が変わる。処し方が変わる。中学生でなくても、20代でも、30代でも、いや、50代でも、年齢に応じた驚きと発見がある。

考えることができるから大丈夫

「家族」についても、大いに唸った。

「生」「死」「心」「自分」「他人」といった概念を丁寧に語った後に「家族」が出てくる。

~以下、『14歳からの哲学』より~
確かに君の体は、君のお父さんとお母さんが関係することによって生まれた。でも、君が君であるところのもともとの君は、誰から生まれたのでもないという不思議な事実には、前の考察で気づいたはずだ。~中略~
誰が生まれるかわからなかったのに君が生まれたという、他人と他人のこの不思議な出会いの感動を忘れて、君のことを自分の子供だと思い込んでしまう。そして、時には、自分の思うように君のことをしようとしたりして、そんなところが、この頃の君には、とてもうっとうしいんじゃないかな。

そのうえで、池田さんは中学生の読者に、「君のお父さんお母さんは、人生の真実を君に教えてくれているだろうか」と問う。そして「君の親が君に教える〝人生の真実〟は、ひょっとしたら真実ではない、間違ったことかもしれない」と話す。さらに、「君たちは考えることができるから、大丈夫」と続けるのだ。

親に言われることを鵜呑みにするのではなく、それが正しいかどうか自分で考えよう、と。

うーん、思春期にこんなこと言ってくれる大人がいたらいいよなあ。

なかなかいないから、娘にはこの本を渡そう。

まあ、それで毎度毎度、反抗されても困るけどね。(^_^;)

 

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