哲学する人に出会う、考える

Bookエッセイ

昔、編集者をしていた頃、他社の先輩編集者に「哲学って何ですか?」と聞いたことがある。

日本に哲学者はいない?!

書店の哲学書コーナーに並ぶのは「哲学入門」的な教科書と、ニーチェやカントを冠にした「〇〇学」とか「〇〇の言葉」といった書籍ばかり。哲学って、先人の道をなぞることなの?と、ずっと疑問に思ってきた。

で、先ほどの質問になるのだが、帰ってきた言葉に膝を打った。

「日本には哲学者がいないんだよね。日本にいるのは哲学研究者だから」

なるほど。私が哲学書コーナーで背表紙を眺めていたのは、哲学書ではなく「哲学研究の書」だったんだ。納得。

もうすぐ死ぬということを考える

で、くだんの先輩はこうも言った。

「中島義道を読むといいよ」

そして翌日、早速購入したのが中島義道・著『人生を<半分>降りる』。

買ってはみたものの、当時の私は転職したばかり。人生を半分降りてる場合じゃなく、ちょっとそんな気分にならなくて、本棚にしまった。もうちょっと先に読もう、と思って。

それから10数年、先日、本棚を整理してたら、本棚の奥で光ったのだ、『人生を<半分>降りる』が。

この中に、当時の疑問に対する答えがちゃんと書かれてあった。哲学とは「自分はもうすぐ死ぬということを本気で考えること」なんだって。あ、これ、池田晶子さんも同じこと言ってたな。

20年ほど前、『14歳からの哲学』で話題になった池田晶子さんの著書を何冊か読んだ時期があった。『考える日々』とか『あたりまえなことばかり』とか。ただ、当時、「池田晶子さん=哲学者」とは思ってなくて、「哲学する人」だと理解してた。

中島義道さんもきっとそう。哲学する人。

そもそも哲学する人は、自分のことを「哲学者」なんて言わないのだろう。

社会の是に合わせるのをやめよう

50代の今なら「人生を半分降りる話」にも抵抗はない。逆に知りたいと、静かな気持ちでページをめくった。

中島さんは、ある時期を過ぎたら(40~50歳あたり)「半分、人生を降りる」ことを薦めている。といっても、それまで築いてきた地位を捨てることでも、早期退職することでもない。つまりは、心の持ち方の問題。

いわゆる世間が〝よし〟とすることに自分を合わせるのをやめて、自分自身のしたいことを優先させること。要は、自分勝手になれ、というやつだ。

それだけ聞くと、「そんなことできたら苦労しないよ!」と思ってしまいそうだけど、そうじゃない。

日本は、明るく元気で積極的な態度が賞賛とされ、暗くて何を考えているかわからない態度は疎まれる。だから皆、いつの間にか、心配事や事情を抱えていても、それを表に出さずニコニコして、その場の雰囲気を乱さないよう気を付けるようになっていく。そうこうするうち、それが是となり、癖になり、当たり前になる。

気づいたら、やりたいことではなく、しなくてはならないことに忙殺される日々。そういうことをやめてしまおう!というのだ。

笑いたくもないのに無理に笑わなくていい。付き合いで会合になんて行かなくていい。会いたくない人の誘いは断ればいい。そうすることでできた時間を、「自分はもうすぐ死ぬんだということを考える」ことに使おうと、中島義道さんは言う。

では、もうすぐ死ぬ、つまり、死を考えるとき、大切なのはどんなことか。

澄んだ眼をもって人間を見る

それは、日常生活の細部に目を向けること

数十年後の日本の未来について語る前に、目の前の妻が何を思い悩んでいるのか、いま息子が何をたくらんでいるのかを感知しよう。「澄んだ眼」をもって目の前の、もっとも近しい「人間」を観察せよ、と中島さんは説く。

それこそが「繊細な精神」を育み、その延長にこそ、「生きること」「死ぬこと」を考えることのできる自分自身がいるのだと。私はそう理解した。

50代のいま、中島義道さんに出会った。

まだまだ理解できてない。中島義道作品、もっと読んでみよう。

 

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