「会えない」だけでなく

日々のこと

柿木

10月最終週の土曜日は、例年、午前中はオープンスクール、午後はPTA主催の「お祭り」。子どもたちにとって、楽しみな1日のはずなのだが――

2020年2月を境にプツンと切れた

昨年はすべて中止。今年は、午前中の授業参観だけ、かろうじて行われた。

密を避けるために、各家庭から参観者はひとり。かつ、クラス全員の出席番号を奇数と偶数に分け、参観者は1時間目と2時間目に割り振られた。つまり、半数ずつの1時間だけの参観。そして、きっとこれが、今年度の最初で最後の参観日だ。

1年生、2年生のころは、学校を訪ねる機会も多かった。

「ぴかぴか大作戦(清掃活動)」、「給食試食会」、「夕方パトロール」などPTAの行事も多く、ちょっぴり面倒な気持ちがなかったわけではないが、それでも参加してみると、クラスメートの母親同士、他愛ないおしゃべりに花が咲いたし、互いの顔もよく見知っていた。

それが、2020年2月を境にプツンと切れた。それ以外、表現しようがない。

もともと、深い付き合いだったわけではなく、学校行事や公園などでときどき会う間柄。それでも、回数を重ね、互いの子どもの成長を見守り合いながら、2年、3年と過ごした年月は、それなりの愛着も育んだ。それが、突如、途切れてしまったのだ。

今日は、子どもたちはもちろん、そんなママ友たちともほぼ2年ぶり。会いたい人も多く、楽しみにしていた。

でも実際は、ほとんど会うことはできなかった。

子どもたちの時間は止まらない

密を避けるための苦肉の策だったのだろうけれど、参観者が1時間目と2時間目に振り分けられたことで、当然、半分の人には会えない。土曜なので父親が来るケースも多く、「参観者ひとり」という制限上、母親が来れない家も多かった。

でも、それだけじゃない。

2年近い空白の時間は思ったより大きかった。2年も経つと髪型はもちろん、変化もある。さらに皆、一様に大きなマスクで顔を覆っているので、イマイチ、誰が誰だかわからないのだ。私の視力低下も影響していたかもしれない。

近くにいたのに気づかなかったり、わからなかったりもした。〝クラスメートのお母さんは皆知り合い〟のような2年前までの感覚とは全く違ってしまっていた。

コロナ禍は「会えない」だけでなく、2年、3年という時間をかけて、ゆっくりゆっくり積み上げてきた母親同士のつながりをも手荒に断ち切ってしまったようだ。

ただ、子どもたちは元気だった。驚くほどに成長していて、教室が小さく感じた。

思えば、コロナ禍に入ったのは小学3年生の終わりだった。そのころまでは、互いの家をしょっちゅう行き来していた娘の友人たちも、2年間で身長がグッと伸び、あどけない笑顔も、ちょっと大人びてきていた。

この2年間、時間が止まっているように感じてきたけれど、とんでもない。

子どもたちの時間はまったく止まっていない。進んでいる。しかも、かなりのスピードで。

 

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