大人のための小説『星の王子さま』

Bookエッセイ

星の王子さま

日曜の朝10時、ラジオFM東京で作家の小川洋子さんが本について語る番組がある。

車中で聞いていたFM東京

昔、福岡に住んでいたころ、週末には朝から糸島半島へ向かうのが楽しみだった。車で30分ほど走って福岡市から糸島市へ入った瞬間、空気がガラッと変わるのだ。

右に海、左に山、頭上に広い空を感じながら、信号のない海沿いの道を走っていると、FM東京から小川洋子さんの声が聞こえてくる。おっとりした語り口が糸島の風景に馴染んで心地よく、いつの間にか糸島ドライブには欠かせなくなっていた。

その後、東京へ転居したのを機に車を手放し、週末ドライブはなくなった。おのずとFM東京を聞く機会もなくなった。

何年ぶりだっただろう、今日、日曜朝10時、小川洋子さんの声を聴いた。

以前と違い、明確な意思をもって朝10時に古いラジオを持ち出し、FM東京(80.0)にチャンネルを合わせた。なぜなら今日小川さんが紹介する本は、大好きな作家・倉橋由美子さんが最後に翻訳した『星の王子さま』だと知っていたから。

出会いと再会

私が『星の王子さま』に出会ったのは中学時代だったと思う。箱入りの美しい本は誕生日かクリスマスの贈り物だっただろうか、しばらく表紙絵を眺めてから宝物を愛でるように読んだ。

冒頭、大きな蛇が象を丸飲みするシーンでは、蛇が「うわばみ」と表現されていて、それが何かわからず怪物を想像した。あの絵は衝撃的で、「帽子としか思えない大人にはなりたくない」と思ったものだ。

帽子

象

あれから30余年、あっさり「帽子でしょ」と言いそうな大人になった私だが、今から16年前の2005年、倉橋由美子さんの訳で『星の王子さま』が出版されたとき、新たな気持ちで再読した。「うわばみ」が「大蛇」と訳されていて、無性に嬉しかった。

当時私は35歳。大人になってから読んだ『星の王子さま』は、中学時代とは別物だった。訳が変わったことも影響しているだろう。倉橋氏が紡ぐ日本語は、いい意味で、どこまでも容赦なく、真をつく。私自身が年を重ねたこともあるだろうが、“王子さま”の言葉一つひとつが心にストンと落ちてきた。

「大事なのは言葉じゃない」と、王子さまはことあるごとに言う。

毎日かいがいしく育てた薔薇にわがままばかり言われて、自分の星を逃げ出し旅に出た王子さま。けれど、一度たりとも自分の薔薇を忘れたことはなかった。

「あのころは何もわかっていなかったんだ。彼女(の言葉)は矛盾だらけだったけど、ぼくは幼すぎて、花を愛するということがわからなかった」

そして言うのだ、「言葉ではなく、行動で判断すべきだった」と。

大人のための小説

いやあ、まいった。この本は、まったくもって大人のための小説だ。

中学時代の私は、このシーンも、あのシーンも、すべてスルーしていた。それぞれのエピソードを、どこかの星からやってきた不思議な王子さまのおとぎ話としてしか読めていなかった。

だから、私が『星の王子さま』と本当に出会ったのは35歳。倉橋由美子・訳だ。

王子さま

あれから16年、年に1、2度、『星の王子さま』を書棚から取り出して読み返す。そのときの私自身の状況や心情によって、心に刺さる場面は変わるのだけれど、王子さまのシンプルな言葉と、倉橋さんの美しい日本語は、いつも私を勇気づけてくれる。

別れ際の王子さまの言葉が……

今日は、小川洋子さんの語りとともに、『星の王子さま』を反芻するという幸せな時間を得た。

小川さんは最後に、「この王子さまは、私(パイロットである著者・サン=テグジュペリ)が死を覚悟したときに自分の中に発見した『反大人の自分自身』ではないか」という倉橋氏の解釈についても触れて、共感された。

倉橋由美子さんは『星の王子さま』の翻訳を終えた直後、本の完成を待たずして急逝された。

「大切なものは目に見えないんだよ」

「きみが夜、空を見上げると、あの星の一つにぼくが住んでるんだから、その星の一つで僕が笑ってるんだから、きみにとっては全部の星が笑っているようなものだ」

「体は捨てられた貝殻みたいなものだ。悲しくなんかないよ」

自分の星に帰る決心をした王子さまが、別れを惜しむ”私”に語る言葉の一つひとつが、倉橋さん自身の言葉のように思えてならないのは私だけだろうか。

 

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