長引くコロナ禍に、少しずつ感じている

考えたこと

窓

しばらくブログを離れていると思ったら、1週間が過ぎていた。

この1週間に思い当たること

なぜだろう。以前は、仕事の合間、家事の合間、いろんな合間にちょこちょこ書いてたのだけど。

この1週間を思い返したら、一つ、思い当たった。意外と外に出ていたのだ。

外出が続くと、パソコンに向かう時間が短くなる。差し迫った仕事が優先になってしまい、ブログに手が回らない。

思えば、コロナ禍に突入して2年半。これまでは、なんだかんだいっても、家に篭っていた。仕事は基本、オンライン。日々の買い物も以前より頻度をぐっと下げて、まとめ買い。

友達とのランチはおろか、会うことさえほぼ叶わない日々だったから、パソコンと向き合う時間だけは膨大にあった。

なんだか味気ない日常の中にあって、私は日々何をしているのか、何を考えているのかを、私自身が感じたくて、ブログを書いていたのかもしれない。

気持ちがコロナから離れていく

そう。今はコロナ禍。いや、今コロナ禍。

2022年の始まりと同時に押し寄せたオミクロン株は、4カ月経った今も、日々、数千という感染者数を叩き出している。収束の兆しを見せているわけでもない。

だけど、何だろう。この1カ月間、気持ちはコロナから離れつつある。もちろん、外出時にマスクは欠かさないし、手洗いやうがいも念入りにしている。

だけど、少しずつ何となくわかってきた。家にずっと籠っていても、人に会わない日々を送っても、感染者は減らないってことを。毎日、夕方の決まった時間に発表される感染者数も、いつからかすっかり見なくなっている。

情報番組でも、コロナについての報道が極端に減った。3回目のワクチン接種の進みが鈍化している中、早くも4回目なんて話が持ち上がっていると知ったときは、正直、ひいた。

コロナが引き離した「人との距離」

みんな、少しずつ、何かを感じてる。気づいてる。何を感じてるのか、何に気づいてるのかと問われると、まだ言葉にできるほど明確に感じてるわけでも、気づいているわけでもないのだけど。

毎日、数千人の感染者数が積み上げられていることは1年前と変わらない。なのに、1年前は、あんなに恐怖感を持って聞いていた感染者数の発表を、今は注視していない。かといって、コロナ禍ってことを決して忘れてるわけじゃない。

つまりは、そういうことなんじゃないだろうか。コロナ対策は続けるけど、そのことを心のド真ん中に置いてはおけないんだよね、ってこと。

もちろんコロナに感染したくはない。だから感染対策はこれまで通り続ける。だけど、コロナという魔物に引き離された「人との距離」のほうが、実は深刻なんじゃないかと最近は思う。

とくに子どもたちを見ていると、ひしひし感じる。

給食は黙って1列に並んで食べる。運動会も遠足もイベントもなし。コロナ禍以降に入学した低学年の子どもたちに至っては、互いの顔を実は知らないのではないだろうか。今後、マスクを外せなくなる子どもたちだって出てきそうだ。

私自身を振り返っても、外出時は、鍵をかけるのと同じくらい、マスクをし忘れることがなくなった。いつになったら外せる日がくるのか、それはまだわからないけれど、実際にその日がきたとき、私たちは何を感じるのだろう。

「あー、気持ちいい!」と空を見上げるのだろうか。それとも、あるべきものがないような心もとない気持ちになっていることに愕然とするのだろうか。

 

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