「千と千尋の神隠し」何回も観たいのはなぜ?
昨晩、金曜ロードショーで娘と「千と千尋の神隠し」を観た。何度観ても、また観たくなる物語だ。
「ワケがわからない」という出会い
観るたびに、新しい発見がある。と同時に、観るたびに、なぜか気になる登場人物が変わる。というか、増えていく。
20年前の公開直後、映画館の長蛇の列に並んで立ち見で観たときは、とにかく主人公の千尋を追いかけた。千尋を巡る出来事があまりに目まぐるしくて、展開についていくのがやっとだった。
最後に、美少年ハクの本当の姿が「コハク川」と知ったときは、ワケがわからなくなったことを覚えている。
それから20年、TSUTAYAでDVDを借りて観たこともあれば、ここ10年はテレビ放映もちょくちょくされるようになったので、1~2年に一度は観てる気がする。
観るたびに、ストーリーそのものはもちろん、世界観じたいを少しずつ、理解できていくような感覚がある。
それほどに、最初はワケがわからなかった。不思議な国に迷いこんだ少女の鼓舞奮闘と成長物語。20年前はそんな見方しかできなかったわけで、宮崎駿さんにとっては嘆かわしい視聴者だったろうと思う。
いや、「ワケがわからない」というのは、実はとても「奥が深い」ってこと。
わからないから面白い。わからないから気になる。だから、何回も観る。
観るたびに少しずつ、この摩訶不思議な世界を私の中に落とし込んでいっている。「ワケがわからない」という出会いは、実はいちばん幸せな出会い方なんだと思う。何事においても。
川の神様に助けられた瞬間
何回か観るうちに、まずハクが「コハク川」だということが腑に落ちた。
私自身、十数年前、初めてのカヌー体験で、友人とともに荒れ狂う犀川へ投げ出され、九死に一生を得たことがある。安曇野を穏やかに流れる万水川をカヌーで下り、犀川との合流地点にきたとき、突然、水嵩が上がって濁流になった。前日、新潟方面に大雨が降っていたことを私たちは知らなかった。
あっという間に濁流に飲まれ、気づいたときにはカヌーが転覆。友人と共に投げ出された。あのとき一人だったらどうなっていたか、今思い出しても怖い。
二人だったから手をつなぎ、声をかけあって、濁流に流されながらも中の島を目指して必死に泳いだ。
茶色の渦巻く濁流、「手は絶対離さないよ!」「あそこ目指そう!」と大声で叫び合ったこと、仲間たちが川辺を走りながらロープを投げようとしていた姿、すべてを映像としてくっきり覚えている。
あんな濁流の中を、流れに逆らって泳げたことが奇跡だと思う。あれは、犀川の神様が助けてくれたとしか私には思えない。だから、ハクが「コハクヌシ」という川の神様であることは、不思議なくらい腑に落ちる。
千尋が「ハクに昔あった気がする」と言ったのも、沁みるようにわかる。
カオナシの哀しみと喜び
そんなふうに、あるときは「釜じい」、あるときは「湯婆婆」、そして「ハク」、ほかにも、「坊(坊ねずみ)」だったり、釜じいの周りにいる「ススワタリ」だったりと、観るたびに目に留まる登場人物が増えていく。そのたびに、この物語の奥行きが、私の中で増していく。
今回は「カオナシ」だった。
言葉を持たず、中身が空っぽのカオナシが、千尋を喜ばせたい一心で砂金を出し、それゆえに湯屋でチヤホヤされて強欲にまみれ、しまいには人を飲み込み、化け物に変貌していく。
すべてを吐いて、元の空っぽに戻ったカオナシと二人で、千尋は電車に揺られ、「銭婆」を訪ねていく。
カオナシを見ていると哀しくなる。たった一人を喜ばせたいだけなのに、その人は喜んでくれず、それ以外の強欲にまみれた人たちに翻弄され、しまいにはその人たちを飲み込んでしまい、自分も化け物になってしまう。
すべてを吐き出せたとき、やっと本来の自分に戻れるわけだ。何もない空っぽの自分に。
そこからのスタートがいいんじゃない? と思う。
銭婆に「ここに残りなさい」と言われて、素直に頷くカオナシに、2本の足ができていたのが印象的だった。
何もないところから始めればいい。自分らしさなんて、かき集めるものでも、無理して出すものでも、ましてや人から奪うものじゃない。
カオナシの存在感、なかなかのものだよ。
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