「小公女セーラ」全46話を見終えて思う

Bookエッセイ

空

娘と一緒に夕食時に見続けた「小公女セーラ」全46話が、昨晩、最終回を迎えた。

ミンチンとラビニアの嫌がらせ

1日1話ずつのつもりで見始めたのが2月初旬。1日1話は、日によって1日2話になり、ときに3話になった。

第10話ぐらいでセーラの身の上が一変してからは、正直、見続けるのがつらかった。同時に、見ずにはいられなかった。

ミンチン(院長)を筆頭に女中頭モーリーたちの嫌がらせと、上級生ラビニアのいじめ。そこまでやるかと怒りすら覚える彼女たちの底意地悪い所業を目の当たりにするたび、つい画面に向かって「いい加減にしなさいよ!」と、マジで憤慨した。横を見ると、娘も、目に涙を浮かべて画面を見つめていた。

ただ、画面の中のセーラ自身は、何をされても、何を言われても、「はい」とすべてを受け入れ、動じない。興奮もしなければ、声を荒げることもなければ、怒り出すこともない。

そんな回が延々と続く中、当のセーラはいつも変わらないのに、外野の私たちが怒っていることに、何とも言えない思いがした。

心の高さがあるとしたら

何があっても、何を言われても、どんな扱いを受けても、決してセーラ自身は変わらない。言葉遣いも、人との接し方も、優しさも。心の在り方そのものが何も変わらないのだ。

そもそも、11歳の少女が突然、両親を失い、その上、これ以上ないほど悲惨な目に遭う中、変わらずにいられるかという問題があるとは思うけど、この際、それは置いておく。

ともかく、セーラは何も変わらなかった。

ラビニアがセーラに対して、どれほどみじめな思いを強要しても、どんなひどい言葉を浴びせても、何も変わらず凛としているセーラに、ラビニア自身がずっと嫉妬し続けていたのだろう。心に高さがあるとしたら、セーラの心は、ラビニアには決して手の届かない高いところにあった。

ラビニアは底意地悪いけれど、一方で、そのことをどこかで感じていたようにも思う。そして、セーラを何としても引きずり降ろそうとやっきになっていたように見えた。

40年越しの勘違い

第44話「おおこの子だ!」で、隣の紳士が探し続けていた娘がセーラだとようやくわかり、すべてがひっくり返るわけだが、ここで私はさらに驚いた。

幼いころ「世界名作劇場」で全話見ていたから、筋は知っていた。たしか、すべてが明るみになり、またもや掌を返したような態度をとるミンチンに、セーラが「私は院長先生に親切にしていただいたことは一度もありません」と静かにはっきり告げた……と私は思っていた。そのセリフはあまりに印象的だったので、数十年経つ今も覚えていた。

ところが!

そのセリフそのものは合っていたけれど、場面が違っていたのだ。

セーラがミンチン院長にその言葉を告げたのは、セーラが寝起きさせられていた馬小屋が火事になって、そのすべてがセーラのせいにされ、学院を追い出されたときだった。

「誰の親切のおかげで、みなしごのオマエがこの学院にいられると思ってるの!」といつものようにセーラを罵倒するミンチン院長に、セーラははじめて静かに言葉を返した。

「私は院長先生に親切にしていただいたことは一度もありません」と。

そして、セーラは寒空の中をミンチン女学院を後にし、マッチ売りをしながら過ごす。つまり、明らかに形勢逆転してから告げた言葉ではなかった。ギリギリの限界の極致の中、卑屈にならず、真実の思いを伝えたという場面だったのだ。

すべてを許すということ

その後、すべてが明るみになって、形勢が大逆転したとき、なんと、セーラは誰のことも攻めなかった。

何を言われるのかとオロオロするミンチン院長に、セーラは「学院に寄付したい」と申し出る。あまりに驚いてミンチンは腰を抜かす。

あれほどひどい意地悪を続けてきたラビニアとはどうなるのだろう……。娘と一緒にセーラを見守った。

セーラを取り囲む生徒たちを遠目に見ていたラビニアが、意を決してセーラに近寄り、放った言葉は――

「私、あなたとお友達になってあげてもよくってよ」

あーあ。だめだ、こりゃ。……と思った。セーラ、はっきり言ってやれ!と。ところが……

「私も、ずっとあなたとお友達になりたかったのよ」

え? は? うそー?! である。

それはないでしょー。あそこまでひどいことされ続けて、それで終わり?

そう、それで終わりだった。

セーラは誰も攻めず、攻めないばかりか、ミンチン女学院には多額の寄付を申し出て、ラビニアとは友達になった。

もちろんセーラは、決してこれまでのことを忘れたわけじゃないだろう。なかったことにしたわけでもない。ただ、すべてを許した。

「ごめんなさい」「許します」なんてやり取りは一つも行われなかったけれど、すべてを許し、そればかりか、さらに与えた。

いやあ、まいった。

まいった、としか言いようがない。

あまりの展開に、子どものころはワケがわからず、最後のところはすべて忘れていたのだと思う。

大人になって観た「小公女セーラ」は、最後こそが、あまりの衝撃となって私の中に強く残った。

「許す」という、人類最大にして最も難しいテーマを、「小公女セーラ」は見事に表現していた。

いやあ、本当にまいった。

 

 

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