今年も、また夏が来た
8月6日の広島、8月9日の長崎。原爆が投下された時間に黙祷しながら、毎年思う。今年も夏が来た、と。
広島の小学生
小学5年の夏休みに、父の転勤で千葉から広島へ引っ越し、中学1年の夏までの2年間を広島で過ごした。そういえば、我が家の引っ越しはいつも夏だった。
たった2年間の広島生活だったけど、11歳から13歳という2年間は、大人の10年にも匹敵するんじゃないだろうか。広島時代の印象は強く、実際、私の子供時代の記憶の4分の1は広島ではないかと思うほど濃密だ。
広島の小学校では「平和授業」が必須。毎週、原爆を体験された方のお話を聞いたり、アニメで戦争関連の映画を見たり、原爆資料館へも学校から行った。
小学生用に作成されたアニメは、疎開中の小学生を乗せたフェリーが爆撃されて子どもたちが海に投げ出されるものだった。いつしか、その中の一人が私自身になり、毎晩、夢の中で荒海に投げ出された。原爆資料館で原爆投下直後が再現された蝋人形を見てからしばらくは、あまりの恐ろしさに一人でトイレに行けなくなった。
青い空は青いままで
当時は、どうしてこんな怖い思いをしなきゃならないの?と思ったものだ。
平和授業の最後に毎回、そして、広島では、節目節目で、必ず歌う歌があった。
「青い空は 青いままで 子どもらに伝えたい 燃える 八月の朝 影まで燃え尽きた
父の 母の きょうだいたちの 命の重みを 肩にせおって 胸に抱いて」
怖い授業の後に歌うから、最初は怖い歌だった。〝影が燃え尽きる〟なんて考えただけでも震えが走った。けれど、5年生から6年生に学年が進むころから少しずつ、気持ちが変わっていった。私なりに、衝撃だけでなく、自らの中から湧き出る感情を意識するようになったのだと思う。
そのころからこの歌が好きになった。温かく柔らかいメロディーが、悲惨さだけでなく、未来への力を運んでくれるように感じていたのかもしれない。気づくと口ずさむようになっていた。
あれから40年経った今でも、ソラで2番までキッチリ歌える。たぶん、そんな歌は数えるほどしかない。
小学5年生で受けた衝撃の意味
そして思う。あのとき、あの年齢でちゃんと知ることができてよかった、と。
まだふわふわの真綿のような心に、これでもかというほどに戦争の悲惨さ、原爆の残酷さを植え付けられたことが、子どもの人間形成においていいのか悪いのか、私にはわからない。けれど、あのときあんなに怖い思いをしたから、絶対に戦争はイヤだ、しちゃいけない!と自らの心にしっかり刻み込んだ。
あのころすでに、広島の町には緑が生い茂り、街の真ん中を流れる太田川は清く、街には活気が漲っていた。
その35年前、太田川は死の川となり、緑はおろか木も石も人間までも一瞬で溶かしてしまった原爆。そんな場所に自分は今いるんだと、小学5年生の私は感じていた。そう感じていた40年前の自分自身のことを、昨日のことのように思い出せる。そのとき着ていたワンピースが、母が縫ってくれた妹と色違いのワンピースだったことまでも。
子どもに伝えるとき
今年の長崎の平和祈念式典で被爆者代表スピーチをされた岡信子さんは92歳。「原爆の恐ろしさを伝えるためにここまで生かされた」と話された。岡さんはじめ、多くの被爆者が、80代、90代を迎え、「もう時間がない」と寸暇を惜しんで語り部を続けられている。
その思いをきちんと受け取るのは私たち。そして、それを次世代に伝えるのも私たち。
娘は11歳。そろそろ76年前に日本で起きたことを、映像として、しっかりした恐怖体験として伝える時期にきていることを痛感する。
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