糸島を好きな私が、ここにいる
普段から意識しているわけじゃないけれど、ここ数年、心のどこかで考え続けていることがある。
頭の隅の先っぽで
それは、私らしく生きるってどういうことだろう……ってこと。
真正面から考えてしまうと、間違いなく、すぐに行き詰まってしまうので、正面突破はしない。
仕事しながら、本を読みながら、ときにはピアノを弾きながら、あるいはウォーキングしながら、なんとなくボンヤリ、頭の隅の先っぽで考えているような気がする。(考えていないかもしれない)
50を過ぎて「私らしい」もあるものか!
と思わなくもないけど、いや、50を過ぎたから大切なんじゃないかと思う。
これまでいろいろなことを経験してきて、ある程度、私自身が好きでやってきたこと、やってみて好きになったこと、好きだと思ってたけど実はそうでもなかったこと、逆に、最初は気が向かなかったけどやってみたら意外と楽しかったこと――。
そんないろいろが一巡して、ようやく私自身が少しずつ見えてきた。何が好きか。何が嫌いか。何ならずっとし続けていたいと思えるか。
人生100年、これから先は、できるだけ私自身に正直に生きたいと思う。
「自分自身」を見つけていく
そんなときに出会ったのが、はらだみずき著『海が見える家』3部作。1作目に出会ったのはコロナ禍前だった。
入社してすぐ会社を辞めた主人公が、疎遠だった父親の突然の死を機に、最後に父親が暮らしていた海辺の家をはじめて訪れる。最初は遺品整理のつもりだったのに、気づいたら一人、その地で生きていくことを決め、それまでの都会暮らしとは全く違う価値感と生き抜く力をゼロから積み上げていく物語。
美しい表紙絵に『海が見える家』なんてタイトルだから、素敵な田舎暮らしの話かと思ったら、とんでもない。
なんだけど、読んでいて、なんとも清々しい。苦しいことも多いけど、その中で主人公が少しずつ「自分自身」を見つけていく。周りの人の力も借りながら、自分の力で生きるようになっていく姿に惹き込まれるのだ。
ようは、周囲にどう見られるかじゃない。「私」のド真ん中にいる私自身がどう感じているかが大事だってことなんだよな。とてもシンプルで簡単なことなのに、なかなか難しいんだな、これが。
自分を知るって時間がかかる
たとえば私。福岡で暮らしていたころ、糸島半島が大好きだった。
海と山に囲まれて、無農薬のおいしい野菜が当たり前。景色も空気も野菜も魚も、そこで出会った人たちも大好きだった。できれば、ここで生きたいと思ったものだ。
だけど、東京(今は千葉)に戻ってきた。抗えないものはあるし、そこで生きたいと思っても、現実には難しいこともある。あきらめなくちゃならないのかな、と思ったこともある。
だけど、最近思うようになった。実際に住めないからといって、それは「あきらめた」ということではない、と。
実際には住めないかもしれない。だけど、糸島を好きな「私」を知って、その私が、今、ここにいる。それでいいんだと思う。
自分の好きなことを知るって、意外と時間がかかる。たぶん50年ぐらい。
ディスカッション
コメント一覧
まだ、コメントがありません