ウクライナのことを考える

考えたこと

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オリンピックが終わった途端、世界はオリンピックの余韻に浸っている場合ではなくなった。

チェルノブイリは、ウクライナだった

遠く離れたウクライナという国のことを、恥ずかしながら、私はほとんど知らなかった。

知っていたことといえば、1991年、ソビエト連邦が解体して独立国家となったこと、そして、首都キエフが三大ロシアバレエの一つ「キエフ・バレエ」の本拠地だということぐらい。

35年前に原発事故が起きたチェルノブイリが、ロシアではなくウクライナにあることも、実は最近知った。

当時はソ連だったから、てっきりロシアだと思っていたという、あまりに拙い思い込み。それほどに、ウクライナについて私は無知だった。

地続きゆえの複雑な道のり

世界地図を広げると、ウクライナは、ヨーロッパとロシアの間に位置する面積もかなり大きい国。

中学時代、世界の農業について学んだとき、この辺り一帯は、有数な穀倉地帯とされていた(当時はソ連だった)。ロシアは広大だけど、東側にはツンドラ地帯が広がり農業は困難。そういう意味でも、ウクライナは旧ソ連の台所だったのだろう。

その歴史はかなり複雑。やはりユーラシア大陸は、地続きであるがゆえの難しさをはらんでいる。

ゲルマン系、イラン系、スラブ系民族が混血を重ね、ウクライナ人へ繋がっていく。9世紀に東ヨーロッパから北ヨーロッパまでを緩やかにまとめた「キエフ大公国」が、ウクライナやベラルーシのルーツになっているようだ。

13世紀にはモンゴル勢力、つまりチンギス・ハンによって滅ぼされた「キエフ大公国」だが、その後、ウクライナの地はポーランド王国、オスマン帝国、ロシア帝国などに次々と支配され、支配国が変わるたびに西へ東へと翻弄され続けた。

料理や文化が伝えるもの

そんな中にあって、彼らはウクライナ人という拠り所をしっかり継承し続けてきたのだろう。

ボルシチやヴァレニキは、紛れもないウクライナ料理。ボルシチにいたっては、ロシア料理の代表みたいに思われているけれど、実は違っていた。この「実は違う」という事実を、私たちは、もっとしっかり見つめないといけないのかもしれない。

郷土料理は、その地に生きる人々の歴史そのもの。迫害されても、たとえ国がなくなっても、そこに人がいる限り、伝え続けることができる大きな宝だ。その地に生きた人の証といっても過言ではないと思う。

虐げられてきた歴史を持つ土地に脈々と郷土料理が受け継がれていることも、大いに頷ける。土地や国はなくとも、料理や知識、考え方など「形なきもの」は受け継ぐことができるから。

昔、スペインのカタルーニャ地方(州都バルセロナ)について、同じようなことを教えてくれた人がいた。

スペインは州によって言語が違うほど民族性が違うので、首都マドリッド有するカスティーリャとカタルーニャは、まるで別の国。かつ、カタルーニャはフランスとの国境地帯でもあって、カスティーリャからも、フランスからも虐げられてきたつらい歴史を持つそうだ。

そんなカタルーニャの人々が大事に育んできたものは、文化だった。

バルセロナを訪れると、聖家族教会(サグラダファミリア)、グエル公園、カサミラなど、独特の建築が異彩を放ち、かつ、人々の生活に溶け込んでいる。カサミラには人が住み、グエル公園は人々の憩いの場。聖家族教会は200年のときをかけて今も日々、完成を目指している。

カタルーニャ料理もしかり。カタルーニャのよきものを、何があっても後の世代に残す方法を選んで、人々は力を注ぎ続けているように思えるのだ。〝歴史的建造物〟と貼り紙をして「立ち入り禁止」にするのではなく、手直ししながら住み続けることを選ぶ、というように。

ウクライナも同じなのではないだろうか。与えらえた肥沃な土地に感謝しながら農業にいそしんできたウクライナの人々。バレエ芸術をはじめ「文化」を育て、郷土料理を愛し、大切に受け継いできた。

ちなみにウクライナ料理の特徴は、肉や魚より、野菜をふんだんに使うらしい。

そんなウクライナの人々が今、日常を脅かされている。

野菜料理を大切に受け継ぎ、芸術を育んできたウクライナの人たちに、これまでどおり、心豊かな平穏な暮らしを。ただ、それだけを望む。

 

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