無意識に「昭和」を求めている?!

Bookエッセイ

夕映え

毎朝、NHK連続テレビ小説を見るのが日課になっている。

8時から20分間のひととき

別に見なくてもいいのに、そういえばずっと見ている。ここ十数年、見逃したストーリーはたぶんない。

だから何?って感じだけど、これだけ続くと、ある意味、この15分間は私にとって、ちょっとした朝の儀式なのかもしれないと思えてくる。

あ、今は15分間ではない。8時15分に「朝イチ」に画面が切り替わって、博多華丸さんと大吉さんの「朝ドラ受け」を見終わるまでなので、正確に言うと15分ではなく、およそ20分かな。

家族を送り出して家事に取り掛かり、途中、8時から20分間、朝ドラ休憩。そして8時20分から再び現実(家事)に戻る。この朝の時間配分が絶妙に心地よくて、朝ドラの内容を問わず、十数年続いているのかもしれない。

さて、昨日も話題にしたけど、現在の朝ドラは「カムカムエヴリバディ」るい編。戦後の大阪、昭和30年代が描かれている。

昭和45年生まれの私には、レコードも、レコードプレイヤーも、白黒テレビも、登場人物の服装も、髪型も、とにかくすべてがほんのり懐かしい。

私が物心ついたころの世の中は、ちょうど白黒テレビからカラーテレビに変貌を遂げようとしていた時期だったのだと思う。3歳違いの妹は、白黒テレビを覚えていないんじゃないかな。私は、私自身の体験として、白黒テレビを見ていた記憶がかすかにある。

カラーテレビになった後も、リモコンなんてものは当然なくて、チャンネルを変えるときは、丸いつまみを右に回していたし、ときどきアンテナ不良で映りが悪くなったりもしていた。

久々に手に取った次郎さん

毎朝「るい編」を見ながら、私自身、遠い昔の風景を断片的に思い出す機会が増えたからだろうか、先日、ふと本屋さんで棚から手に取ったのは、浅田次郎・著『夕映え天使』だった。

最近はもっぱら、若い作家の作品に手が伸びることが多かったので、ちょっと自分でも意外だった。

私は今、こういうのが読みたいのだね……と。

浅田次郎さんの作品では、短編が好きだ。独特の肌触りと、ざらっとした違和感をあえて残す読後感が特徴で、それが好きで読んでいたけど、ここ数年はすっかりご無沙汰していた。久々に手が伸びたのは、なんとなく朝ドラの影響もあるような気がする。

私は今、無意識に「昭和」を求めているのかもしれない。

久しぶりに読んだ次郎さんは、やっぱりザラザラしていた。スカっと抜けるような心地よさではなく、後にしばらく糸を引くような、奥歯に挟まった何かがどうしても取れないような、中途半端な感情が残る。

ただ、それは不思議と不快なものではない。幸福感とは相対するものなんだけど、心地悪さとも対照的なもの。「なんとかなる」と思えるような、どこか吹っ切れたような潔さも残るのだ。

表題の「夕映え天使」もそんな短編だった。

父と息子二人で細々と営むラーメン屋に、突然やってきて「住み込みで働かせてほしい」と懇願した女性。ほどよい距離感で過ごしていたが、半年ほど後、急に姿を消して、その後、思いもよらない再会を果たす。どんな事情で何があったのか何も書かれていなくて、もはや読者は完全に置いてけぼりだ。

なのに、読んでいるときも、読後も、不思議と置いて行かれた気はしない。事情も何もわからないのに、この女性はきっと不幸せではなかったと思える。決して幸せな道をたどっているわけではないのだけど。

不思議だ。これが浅田マジック。いや、人間の不思議か……

なんでもかんでも「昭和っぽい」なんてまとめたくはないけれど、こういう曖昧さとか、わからない感じを、あえてそのまま置いておく。そういうのは、やっぱり昭和な感じがする。

何事もいいか悪いか、好きか嫌いかに分けて考えがちな日々の中で、「いやいや、それだけじゃないよ」とそっと耳打ちしてくれるような時間。私はけっこう好きだ。

 

 

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