じゅんさい池に飄々と
8カ月前の今年1月、ずいぶんご無沙汰していた近所のお気に入りのカフェに行ってみたら、店がなくなっていた。コロナ禍で長いこと足が遠のいていたことを後悔したけど、遅かった。
懐かしきカフェ
しっとりした佇まいに、控えめに掛けられた「珈琲飄々」という木の表札。それは、つい通り過ぎてしまうほど控えめで、でも、不思議と気になる温かさと懐かしさが漂っていた。
数年前、その表札に惹かれて足を踏み入れた。マスターが丁寧に淹れてくれる珈琲がおいしくて、それからときどき通った。カウンター席しかない小さなカフェ。本を1冊読み切るほど長居しても放っておいてくれる、そんな優しい空間だった。
「飄々」なき今、コロナ禍を押してまで行きたいカフェはなく、時を同じくして、近所に珈琲豆の店ができたこともあって、私の珈琲タイムはもっぱら自宅。ただ、ときどき「飄々」の珈琲とあの表札を懐かしく思い出していた。
奇蹟が起こった
そして今日、奇蹟が起こった。私は奇蹟だと思った。
3日前だっただろうか、東京に住む友人と久しぶりにZOOMでおしゃべりし、たわいない話の中で、わが町の憩いの場「じゅんさい池公園」のことが話題になった。
行動力抜群の彼女は、昨日、ご主人と一緒に早速、訪ねてみたとのこと。今日、じゅんさい池の写真とともに、「池のほとりにあったカフェ、絶対好きだと思うよ!」というメッセージが添えられて、あるカフェの写真がLINEで送られてきた。
店の名は「飄々」。
こんな名前、そうそうかぶるものではない。しかも、友人が送ってくれた店内の写真には、私が知ってる「飄々」のカウンターに並べられていた絵本や文庫本たちも写っていた。
間違いない。あの「飄々」だ!
自然と、淡々と、飄々と
というわけで、友人からLINEを受け取った30分後には、じゅんさい池公園を目指して歩いていた。
数年前、毎日、自転車の後ろに娘を乗せて通った幼稚園の脇を通り、さらに歩く。畑やナシ園を横に見ながら歩き続ける。ずっと続いていた畑のいくつかは、分譲地として整備され、売りに出されていた。のどかな田園風景も少しずつ変わっていくのだろうか。
それでも、木々は生い茂り、どこを見ても緑が溢れている。柿の木には橙色の実がたくさんなっていた。
家を出発して30分後、じゅんさい池を少し散策してから、カフェを探した。一見しても気づかない。よくよく見ると、ようやく細い文字で「珈琲飄々」と記された手書きだろうか、看板らしきものが目に入った。あると知っていても、最初は見過ごしてしまう、やっぱりそんな控えめな看板だった。
看板の脇の石段を上っていくと、民家の入り口。そこには、懐かしいあの木の表札が掛かっていた。
「珈琲飄々」
そして「飄々」のマスターと再会を果たした。ほぼ2年ぶり。突然現れた私をマスターは覚えていてくれた。驚くわけでもなく、まるで1週間前に来た客かのように、自然に淡々と迎えてくれた。
これこそ「飄々」だ。
窓から外を眺めると、じゅんさい池が広がり、西日が輝いていた。
さりげなくも絶妙のパス
夕日を眺めながらぼんやり思った。
コロナ禍で畳まれたとばかり思っていた「飄々」は、実は歩いて30分ほどのところに移転していた。なくなったと思っていただけで、ほんとはあった。
1年近いときを経て、私をそこに導いてくれたのは、たった一度、偶然その場所を訪れた友人だった。思えばこれまで、彼女は私に、何度、絶妙のパスを投げかけてくれたことだろう。
「なくなってないよ、ちゃんとあるよ」
読み返すと、そんな彼女の声が聞こえてきそうなLINEメッセージだった。
今回も、見事なほどにさりげない、彼女らしいパスだった。
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